アナリストの忙中閑話【第9回】

(2011年10月13日)
【第9回】ブラチスラバの秋、EFSF機能拡充案を巡る攻防、多極化し主張する世界
金融経済調査部 金融財政アナリスト 末澤 豪謙
スロバキア、与野党が総選挙の前倒しとEFSF機能拡充案可決で合意
スロバキアの連立与党3党、「スロバキア民主キリスト教同盟(SDKU)」、「キリスト教民主運動(KDH)」、「架け橋(Most-Hid)」と、最大野党の「方向党―社会民主主義(Smer-SD)」は、10月12日、総選挙の前倒しを条件に、EFSF(欧州金融安定化基金)の機能拡充案で合意した。これにより、早ければ、13日にも、同案は、可決される見通しとなった。
既に、EFSFの機能拡充案は、10日のマルタの承認により、ユーロ圏17か国中16か国で批准が終了、スロバキアの否決により、成立がやや遅延したが、どうやら、週内には、17か国の批准完了で成立する見通しだ。
同案は、11日にも、スロバキア議会(一院制、定数150名、任期4年)で、採決に付されたが、1回目の採決では、出席議員124名の内、賛成は55名、反対9名、棄権60名と大半の議員が、欠席ないし棄権に回り、賛成が過半数に満たず、否決されていた。
否決の主因は、22議席を有する連立与党第2党の「自由と連帯(SaS)」、最大野党のSmer-SD(スメル、エス・ディー)が、棄権に回ったことにある。
但し、62議席とスロバキア議会で最大の議席を占めるSmer-SDは、機能拡充案自体には、基本的に賛成しており、11日の棄権は政治的な対応だった。
今回、2014年6月の任期満了による総選挙を2012年3月10日に2年以上前倒しすることで、政権奪還を狙うものと見られる。
牧歌的な雰囲気のスロバキア
筆者は、今年8月下旬にスロバキアの首都、ブラチスラバを訪問したが、国立美術館の壁面も一部が剥げ落ち、修復もままならない状況で、かつて連邦を組んでいた隣国チェコのプラハとは、社会インフラの整備状況等に格段の差があった。
やはり隣国のハンガリーの首都ブタペストでは、欧州大陸で最初に地下鉄が敷かれ、チェコでも、近代的な地下鉄が運行しているに比べると、ブラチスラバは、路面電車とバスしかなく、高層ビルもほとんど存在しない。
旧市街は、中世の中小都市といった風情であり、日本大使館を始め各国の大使館も、通常の領事館のスペースよりも、格段に小さい。
高層ビルの少なさは、景観への配慮があるのかもしれないが、スロバキアは、人口543万人(2010年12月)、面積49,035平方キロメートル、GDPは875億ドル(2010年)、1人当たりGDPも16,187ドル(2009年)に過ぎない。
ユーロ圏入りしていないチェコが、人口1,052万人(2010年)、面積78,866平方キロメートル、GDP1,920億ドル(2010年)、1人当たりGDP18,259ドル(2010年)であるのに比べると、より小国と言える。
また、欧州財政危機の発端となっているギリシャと比較しても、人口1,113万人(2007年)、面積13万平方キロメートル、GDPは3,575億ドル(2008年)、1人当たりGDPも32,105ドル(2008年)と、何れもほぼ半分以下の水準であり、連立与党内からも、ギリシャ支援にも使われることになるEFSFの機能拡充案に反対論が起きるのは、理解できなくもない。
欧州への回帰を掲げたスロバキア
但し、2004年3月にNATO、同年5月EUに加盟、2009年にユーロの導入に踏み切ったのは、「欧州への回帰」を掲げたスロバキア自体である。
当地で一緒に過ごしたスロバキア人やチェコ人のガイドによると、10世紀以降、16世紀までは、ハンガリー王国の統治下に、その後は、第一次大戦以前まで、ハプスブルク家の統治下となり、チェコやスロバキアは、苦難の歴史が続いたとの声が聞かれた。
特に、ハンガリーの名前は、帝国名(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に入るも、ボヘミアやモラヴィアの名前は入らず、永らく差別されていたとの認識を持っているようだ。
オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後、「千年の桎梏(しっこく)」から、ようやく解放され、チェコスロバキア共和国が建国されるも、まもなく、ナチスドイツの支配下に入ることとなった。その際1939年にスロバキア国が独立しているが、第2次世界大戦後は、ソ連の影響下となり、チェコスロバキア社会主義共和国となった。
1960年代には、「プラハの春」と呼ばれた民主化運動、「人間の顔をした社会主義」が浸透するも、1968年8月には、危機感を抱いたソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を越えて、チェコスロバキア内に侵攻、プラハのヴラーツラフ広場は、条約機構軍の戦車で埋め尽くされた(チェコ事件)。
そういう意味では、実質的に独立が回復したのは、1991年のソ連解体前夜に起きた1989年のビロード革命以降であり、1993年にチェコと連邦を解消し、スロバキア共和国が単体で独立国家として誕生することとなった。
構造改革の光と影
スロバキアは、チェコ事件以降、ソ連の方針もあって、自動車や機械工業の集積が進んだが、国際競争力の面では、西側企業に太刀打ちできるものではない。
独立後、1990年代は、貿易赤字、財政赤字、国営銀行の不良債権問題に苦しむこととなったが、1998年以降、外資導入と財政再建を推進、自由主義的な政策路線への転換により、経済と国家財政を立て直し、チェコやハンガリーに先駆けて、EUとユーロ圏入りを果たしている。
同国には、安い人件費や高い教育水準を背景に、ドイツや韓国等の自動車メーカー4社(筆者が当地で受けた説明によると)が工場を置いており、牧歌的な雰囲気の国柄とは裏腹に、自動車や機械が最大の輸出品となっている。
但し、我が国でも、小泉政権時代に指摘されたように、構造改革は痛みを伴う。スロバキアの失業率は、経済危機以降高止まりしたままであり、2011年4月も12.9%(スロバキア労働局)と高水準にある。
同国における1998年以降の政権交代は、構造改革を推進する中道右派の連立政権と構造改革の一部修正を掲げるSmer-SDを中心した中道左派の連立政権が交互に、勝利することで発生している。
今回、EFSFの機能拡充案が議会で第1回目の投票で否決されたのも、大半が棄権によるものであり、その背景には、1998年以降の構造改革路線の光と影に対する国民の期待と不満を反映したものとも考えられる。
このあたりは、2009年に起きた我が国の政権交代の時代背景ともやや似たものが見受けられる。
但し、スロバキアは、ギリシャと違って、ユーロ圏入りが高成長の背景となっており、千年以上続いた他民族からの支配等、過去の「軛(くびき)」から逃れるためにも、NATOやEU、ユーロ圏に帰属することの重要性を国民は理解しているのではないか。
次回の総選挙で、政権奪還の可能性が指摘されているSmer-SDも、EFSFの一段の機能拡充等には基本的には賛同姿勢を示しており、次回もスロバキアが台風の目になる可能性は低いと予想しているが、今回の事案は、世界の多極化と新興国等への配慮の必要性を再認識させることとなった。
「プラハの春」とは違った意味で、「ブラチスラバの秋」は、時代を象徴した出来事
「プラハの春」とは違った意味で、「ブラチスラバの秋」は、時代を象徴した出来事と言えそうだ。
なお、1968年にソ連軍のT55、T62戦車等が多数押し寄せたプラハのヴラーツラフ広場は、今は、一部は、駐車場となり、周りは、中世風の建物の中に、カフェやレストランが点在、人であふれており、チェコ事件当時の光景は、想像すらできない。
旧共産圏の国々には、軍事パレードや党大会等を開催するための広場が広大な規模で確保されていることが多いが、ハンガリーやスロバキアでも、そうしたスペースは、最近では、駐車場に転用されていることが多い。
ある面、全体主義から、個人主義へ大きく揺れ動いたと想定され、そうした面からも、国民の意識が、ここ20年で、大きく転換したことが窺われる。
2009年結党の新興政党である「自由と連帯(SaS)」の躍進も、そうした時代の変化がもたらしたと言えそうだ。
ニューヨークを含め、米国の各都市では、現在、ウォール街への批判とともに、雇用創出等を求めるデモが繰り広げられている。
様々な主張が「ごった煮」状態のため、1つの流れとは言いにくいが、昨年の中間選挙で共和党の勝利に貢献し、社会保障費の削減等を求める自由放任主義的な「茶会党」へのアンチテーゼとも捉えられる。
何れにせよ、リーマンショック後、超大国アメリカのパワーが分散、多極化した世界では、新興国を含む世界の国々や民衆は、より自らの主張を強め、対外的に発信し始めたと言えそうだ。
日本的な「阿吽(あうん)」の呼吸は、対若年世代のみならず、対外的にも、共有が難しくなりつつあるのかもしれない。
末澤 豪謙 プロフィール
1984年大阪大学法学部卒、三井銀行入行、1986年より債券ディーラー、債券セールス等経験後、1998年さくら証券シニアストラテジスト。同投資戦略室長、大和証券SMBC金融市場調査部長、SMBC日興証券金融市場調査部長等を経て、2012年よりチーフ債券ストラテジスト。2013年より金融財政アナリスト。2010年には行政刷新会議事業仕分け第3弾「特別会計」民間評価者(事業仕分け人)を務めた。財政制度等審議会委員、国の債務管理の在り方懇談会委員、地方債調査研究委員会委員。趣味は、映画鑑賞、水泳、スキューバダイビング、アニソンカラオケ等。